先日、うちの金魚が亡くなりました。
12年間一緒に生活をしていた家族でした。
我が家の水槽には6匹の金魚が住んでいた時代もありましたが、1匹抜け・・・また1匹抜け・・・と徐々に減っていき、最後に残ったのがこの1匹でした。
名前は『ギョキン』
お祭りの金魚すくいから我が家に来た時は小指ほどの大きさでしたが、最後は20cm程まで成長しほぼ鯉と化していました。
前日まで元気に泳いでいたのですが、朝に動かなくなっていたところを発見しました。
長年ギョキンの居場所だったリビングの一角には、主のいなくなったガラステーブルだけが置かれています。
悲しいのか、寂しいのか、それともなんともないのか・・・この微妙な感傷はなんだろう?
涙が出るわけでもなく、かと言って無傷であるとも言い切れない。
なんとなくぼんやりとした感覚が頭の中にあり、その実体が何であるのかを考えられずにいます。
考えられないのか、もしくは考えるのを拒否しているのか。
何もかもわからないまま、そこにあるガラステーブルを見ています。
思い出
イヌやネコであれば飼い主との触れ合いが多くあり、10年ともなれば様々な思い出が残っているはずです。
一緒に行った散歩道や公園があり、一緒に過ごしたソファの上があり、一緒に寝たベッドなどがあるかもしれません。
金魚の場合、ふれあいと言えば朝のエサやりの時くらい。
水槽の横にあるエサの袋を手に取ると、待ってました!とばかりにそれはもう勢いよく泳ぎ回る。
そしてスプーンで水槽を「コンコンコン」と叩く。これ、朝ごはんの合図です。
エサを入れる前から水面に口を出し、パクパクとすごい音を立てる! うるさっ!
そうそう、エサは最初でこそ金魚のエサでしたが、最後は鯉のエサでしたー
エサやり以外にも存在をアピールする時がありましたね。突如として飛び上がり水槽のガラスのフタにガン!とぶつかるやつ。
それからバシャ!っと跳ねて床を水浸しにすることも。
あと水替えの時にはいったんビニール袋に移すんですが、ヤツはこれがイヤでイヤで。めちゃくちゃ暴れるわけです。
バチャバチャと暴れまわり、私の上半身と床はびしょ濡れ、顔にもかかる始末。そりゃーほぼ鯉ですから大変です。
ハハハー、懐かしいねー
2人だけの思い出
思い出というものは不思議なものです。
脳細胞の物理的な結びつきで記憶となったものが、お互いの感情にミックスされて思い出に変わるんです。
私にも金魚の思い出があったように、金魚の方にも思い出はあったはずなんです。
その一方の存在が無くなってしまうと、もう一方の思い出しか残らなくなります。
もし残りの一方の存在が無くなってしまうと、もうその思い出はこの世から消えてしまうんですね。
そしてその思い出はもう蘇ることはない。タイムマシンでもない限り。もう二度と。
そう考えると、思い出はその人数が少なければ少ないほど、大切に、丁寧に持っておかなくてはならないということではないかと思うんです。
2人だけの思い出を他の人に話すということも、思い出を残すという意味ではとても大切な方法だと思います。
私は以前、亡き父の古い友人から父が若い頃の2人だけのエピソードを聞いたことがありました。
亡き父が一瞬生き返った気がしました。
たぶん1人だけのものだった思い出がまた2人だけのものになったから・・・そんな気がします。
明るく楽しく
今朝、スマホのリマインダーから通知が表示されました。
「ギョキン水槽掃除」
にじんだ画面を見ながら、2週間に1回のスケジュールを削除しました。
「ある」ものが「なく」なり、生活が、日常が、変わる。
悲しいことですが、残った者は前に進まなくてはなりません。
思い出を大切にしながら、でも思い出に縛られることなく生きていく。
たのしかったー、と。ひと区切りだ、と。
そう考えて、明るく楽しく生きていきましょう!
ギョキンは生前の遺志により、近所の川に帰りました。
川は今日もいつもと変りなく、穏やかに流れています。


