1月の朝、風を切って走る。
氷点下の空気を裂き、軌跡を描いて自転車をこぐ。
肌の感覚、意識。全てが薄れていく。
ペダルをこぐ足の感覚はもはや自分のものではなく、ペダルが他人事のように回っている。
今日の仕事は何だったか・・・なんか気が重い仕事があったはずだ・・・
自宅を出るときに頭の隅にあったそんな考えは、自転車をこいでいるうちにどこかに行ってしまう。
すれ違う人。追い越される人。
彼らの人生を私は知らない。ほんのカケラほども知らない。
でも、この寒空の下での連帯感はある。
ほんのカケラほどだが。
地元
自転車のスピードを緩めて橋を渡る。
地元の川。小さな川。
何を見るでもなく、何を求めるでもなく、川面を見る。
いつもの風景。
これが地元の地元たるゆえんだ。
家族や親友に対しては、いまさら余計な言葉が不要なように。
最小限でいいよ、疲れるんだからさ・・・そういってくれるのが地元なのだ。
川面に白く湯気があがっている。と思いきや、自分の息だ。
ふぅーーー、こんなに白かったのか。
冬の青空はどこまでも青く、雲ひとつない。
野鳥
こんな寒い中の通勤も、つらい事ばかりではない。
ささやかな楽しみもあるのだ。
通勤途中にある公園。そこで野鳥と出会うことが出来るのだ。
野鳥は日中はさえずりながら木々の間を飛びまわっているが、早朝は少し違った動きをする。
人の姿が少ないため、多くの野鳥が遊歩道に降りて地面をつついているのだ。
まだ薄暗い公園の中を自転車で走っていくと、普段は木の上でしか見られない野鳥が前方の路上に見える。
そして近づく私との距離を測ったかのように、一斉に飛び立つ姿を見ることが出来る。
鳥たちが飛び立ったその場所に自転車を停めて周りを見回すと、少し高い位置からみんなが私を見ている。
みんなと溶け込めないこと、自然と一体になれないこと、これを私は受け入れるしかない。
それでも少しだけ、心が温まる「ひととき」なのだ。
鳴き声
「聞きなし」と言う言葉がある。
本来何の意味も持たない野鳥の鳴き声を、なにか人間が話す言葉に置き換えて覚えやすくしたもののことを古来「聞きなし」と言う。
ウグイスは「ホー法華経」、サンコウチョウは「月日星ホイホイホイ」、ホオジロは「一筆啓上仕り候」など。
その中で「チョットコイ」と聞きなされる野鳥がいる。
「コジュケイ」というキジの仲間だ。
姿はずんぐりとしてハトと同じくらいの大きさ。胸に赤と青の特徴的な模様を持つ。鳴き声は聞こえても姿を見せることはめったにない。空を飛ぶこともめったにない。
実のところ、私は毎朝このコジュケイに会いたくてペダルをこいでいる。
ごくまれに藪の近くの遊歩道に5、6羽が集団で地面をつついている場面に出くわすことが出来る。
運よく出会えた時は、静かに自転車を停めライトを消し、ゆっくりとした足取りで片手で自転車を押しながら近づいていく。
逃げない。彼らは逃げないのだ。それでも近づいていく。約1mの距離を保ちながら彼らは先を歩いて行く。距離は縮まらない。私もそれ以上縮めようともしない。彼らは私を横目で見ながら逃げるともなく歩いて行く。自転車のタイヤが小石を踏んだ「パン」という音が合図となり一斉に藪の中に走り出す。もう少し! あと少しだけこのままで・・・
・・・夢からさめたのか。藪の中から聞こえる熊笹のカサカサという音とコジュケイの残像。もはや寒さは感じられない。
道しるべ
私とコジュケイが過ごすこの一瞬の間には、お互いにわずかの共感が生まれていると私は信じている。
それはあまりにもわずかで、早朝にすれ違う人たちや地元の川との連帯感に似ている。
他の野鳥には感じられない、ユルくてウェルカムな「地元」をコジュケイには感じられるのだ。
お互いの境界線が曖昧となり、同じぬるま湯につかっているような感覚は不思議な多幸感を生む。
AIでは生み出せないもの。だと思う。
チョットコイ! チョットコイ!
コジュケイはそう鳴く。文字通り「ちょっとだけ来い」なのだ。
・・・きょりをたもってくれさえすれば すこしだけはなしをきいてあげるよ おっとちかすぎだよ もうすこしはなれて ちょっとこいといってるじゃないか むずかしいことはわからないけど そのままでいいんじゃない? それはきにしなくてもいいんじゃない? なるようになるよ たぶんね むずしいことはわからないんだけどさ・・・
シンプルに生きる
コジュケイはその道しるべなのだ。
チョットコイ!
そう言われたくて今日も自転車をこぐ


