水田のある、近所の公園。
自転車を停めて、畦道を歩いてみました。
青い空に白い雲がゆっくりと形を変え、風になびいて波打つ緑の稲穂。
小さな段差を落ちる水の静かなせせらぎに、ときおり野鳥のさえずりが交差しています。
「アメンボは何十年経ってもアメンボのままだなあ・・・」
と、妙な感慨にひたっていると、目の前をスッと何かがかすめる。
トンボだ! シオカラトンボだ!
一気に心は小学生! 持っているランドセルを投げだして追いかけ出しそうになる。
私にとって心が躍る昆虫と言えばカブトムシやクワガタムシではない。
風とともに自由に飛びまわる、トンボなのだ。
本多忠勝
私が長年愛用している長財布は「甲州印伝」という伝統工芸品で、模様は「蜻蛉(とんぼ)」です。
黒の鹿革の上に、黒の蜻蛉模様の漆をつけたもの。
無数のトンボが四方八方に飛びまわる様を表現したものです。
古来、トンボは縁起の良い虫として知られていました。
戦国時代は多くの武将が武具にトンボの飾りをつけていました。
トンボは習性上、前にしか飛ばず、後退することがないという事から「不退転」の象徴とされ、「勝ち虫」と呼ばれたことが理由です。
徳川家康を支えた四天王のなかに「本多忠勝(ほんだただかつ)」という武将がいました。
彼の愛用の槍の名前は「蜻蛉切(とんぼきり)」と言います。
槍の先にとまったトンボが足を滑らせて真っ二つに切れて落ちたという伝説から付いた名前とされています。
凄まじい切れ味を表すと同時に、戦での「不退転」の意志を表したものなのでしょう。
トンボとり
トンボが目の前の枝にとまりました。
久しぶりに真剣勝負してみようかな。
かぶっていたキャップをおもむろに手に取る。
トンボの後ろにまわり込み、気配を消してゆっくりと近づく。
スナップを効かせて、キャップを下から振り上げる・・・
おー、ゲットしたかも!
ゆっくりとキャップの中に手を入れる。
この瞬間のドキドキ、久しぶりー。
バタバタバタ・・・いたいたいた! しおからー、かわいー!!
「ムムッ、はねの先が黒くて尻尾の先の黒が短いからこりゃオオシオカラトンボかな」
幸せって
「オレ様の腕もまだまだサビちゃいないねー」
ドヤ顔でトンボを指先にとまらせて頭上に掲げる。
なかなか飛び立たない。じっとこっちを見ているトンボくん。
ふと思った。「幸せ」ってこんなことなんだろうと。
宝くじが当たるとかそんなことではない、日常のちょっとしたこと。
今日は久しぶりに残業なしで帰れたとか、コロッケを買ったらオマケをもらえたとか、苦手な人とうまく話せたとか、そんなこと。
こんな小さな幸せの積み重ねで、明日もまた頑張れるんだろう。
風に誘われて、指先からトンボが離れた。夏の青空に溶けていく。
「よし今日から君を蜻蛉切と名付けよう!」
切れ味鋭いキャップを太陽にかざし、何度か風を切ってみる。
停めていた愛馬にまたがりペダルを漕ぎだすと、トンボたちが遠ざかり、小さくなっていく。
でも心の中の小さな幸せは、しぼむことなく残り続けていました。


