雨と森と自転車

「今日も雨か・・・」

朝、カーテンの隙間から見えるベランダの手すりが水を吸って鈍く光っている。

昨日も一日中雨だった。

予報では朝から晴れるかどうか微妙なところだったが、どうやら天気の回復が遅れているようだ。

まあこんなことは慣れたもので誰に文句を言ってもしょうがない。

彼は布団をはねのけ、朝のルーティーンに向かう。これだけは晴れの日も雨の日も関係ない。

雨が彼の一日に影響を与えるか否かと言われれば、あると言わざるを得ない。

彼は自転車通勤をしているからだ。

会社までは片道30分、往復にして1時間。

それだけに「雨」は特別な意味を持つのだ。

彼と雨

彼は雨が嫌いではなかった。

窓から雨の風景を眺めるのも好きだったし、雨音を聞きながら時を忘れることもあった。

梅雨どき生まれだったので、酔っぱらった時などは「オレは雨から生まれたんだ」などと言ったこともあるくらいだ。

そんな彼でも雨の自転車通勤は人並みに気が重い。

もちろん他に選択肢がない訳ではない。

電車とバスを使えば、自転車と変わらない時間で通勤できることもわかっていた。

大雪の降った翌日など、公共交通機関を利用したこともあった。

実際に使ってみると体力的にも楽なことは彼には予想以上だった。

それでも雨の中を自転車で通勤し続ける理由があった。

今日もカッパを着込みマンションの自転車置き場から飛び出していく。

公園の森

彼の職場は丘の上にある高台の一角にあった。

自然豊かな場所であり、都立公園の雄大な森を抜けた先に位置していた。

駅へ向かうカラフルな傘の波を横目で見ながら、波に逆らうように自転車で駆け抜けていく。

幹線道路から川沿いの道路に抜け、徐々に登りがきつくなっていく。

普通の自転車では到底登れるものではなく、電動アシスト自転車は最低限の装備だ。

彼の愛車はスポーツタイプの電動アシスト自転車であったが、それでも登り切ると息が上がるくらいの登り坂だ。

川沿いの住宅街を抜けると、すれ違う自動車もまばらとなり、信号の数も減っていく。

額にうっすらと汗をかき始めた頃、都立公園の入り口に差し掛かる。

この公園は、彼が現在の事務所を借りる時に決め手となった公園だった。

この環境で仕事ができるという事は、毎日の坂道通勤と引き換えにしても惜しくはないほどに彼には魅力的な事だった。

雨の森

この公園は自然を生かした丘陵公園であり、雑木林の自然林をぬって舗装路が走っている。

鳥や虫たちを緑が包み込んだ広大な公園は、休日には多くの人が訪れる憩いの場となっている。

その公園を音もなく彼の自転車は走っていく。

森の中を滑るように走っていく。

濡れて空の青を映した路面を夢のように走っていく。

誰ひとり見かけない。誰も歩いていない。

雨に濡れた森なのだ。

しばらく走ると彼は自転車を止めた。急ブレーキに近い止め方だ。

彼は微動だにせず、気配を殺すように前方を見つめている。

遊歩道の30mほど前方には、コジュケイの群れがまるで水面に浮かんでいるかのように佇んでいたのだ。

感覚

人生には楽しいことも、苦しいことも、悲しいことも、死にたくなることもあるかもしれない。

でもこの瞬間は、すべてを超越した何かを彼に感じさせるものだった。

今ここにいるという単純な事実。いまここに存在しており、ただそれだけ、ということ。

過去も現在もなく、縦も横もなく、線も面もない。

ただの点を感じるだけ。

彼はこの「感覚」が好きだった。

生き物の鼓動を感じながら、雨の重さと冷たさを感じる時間。

そっと上を向くと雑木林の切れ目から空がのぞき、幾筋も雨が落ちている。

彼はこの感覚を味わいたくて、今日も雨の中を自転車で走って来たのだ。

彼の存在を自然の一部と認めたか、すぐそばでウグイスのさえずりが響き渡った。

違う朝

彼はもともとさほど自然を愛するタイプの人間ではなかった。

どちらかと言えば都会が好きで、世の中の便利さを重視する人間だったのだ。

それがある時を境に変わった。

それは仕事がうまくいかず、日々の生活にも疲れていた頃、この「感覚」に出会ったのだ。

その時も、雷に打たれたように公園の真ん中に立ち止まって空を見上げていた。

今この瞬間以外のことはどうでもよくなったこの感覚は、それまでの価値観を大きく変えるに十分な、ずっしりとした「実感」を伴っていた。

そして何より・・・幸せを感じたのだった。

あの日以来、雨は彼の朝を少しだけ違う朝に変えてくれた。

今日もこの「今」に出会えた・・・

雨は筋を描きながら、彼の存在のすべてを包み込んでいた。

ペダルを漕ぐ

彼の前方にはジョギングの青年が見えてきた。

黒ずくめのスタイルで、3日に1回はこの場所ですれ違うという、言わば面識のない友人だ。

雨の向こうに青年の姿を認めた彼はようやく動き出した。

自転車のペダルに足をかけ、何かをつぶやくと再び漕ぎ始めた。

なんとつぶやいたのか。

それはジョギングの青年にも、鳥や虫にも聞き取れない。

前向きな言葉なのか、もしくは後ろ向きな言葉なのかもわからない。

ただ確かなことは、今現在ペダルを漕いでいるということ。

ペダルを漕いで「前」に進んでいるという事実のみが、彼の存在への証明なのだ。

青年とあいさつもなくすれ違い、彼は森の奥に消えて行った。

ウグイスのさえずりが空に響き渡った。

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